歴史遺産学科Department of Historic Heritage

[優秀賞]
伊藤颯希|変わりゆく宿坊街と人々?山形県鶴岡市羽黒町手向における宿坊運営?経営形態の変遷?
山形県出身
志村直愛ゼミ

目 次 はじめに/研究対象の概要/宿坊街における地域社会の変容/株の管理と所持状況/宿坊街における組織運営?宿坊経営の変遷/おわりに

本研究の対象である山形県鶴岡市羽黒町手向地区は、出羽三山を構成する一山?羽黒山の山麓にあたる集落である。出羽三山信仰の最盛期である近世後期には「麓336坊」と称され、各地から訪れる道者を宿泊させる宿坊街として栄えた。しかし、明治元(1868)年の神仏分離以降、手向の宿坊数は減少し、現在では20数軒が宿坊経営を続けている現状にある。このような手向宿坊街に関する研究は少なく、山上の羽黒山とその組織構造に注目したものや羽黒修験の山伏修行など民俗?宗教学的研究がほとんどであった。このため本研究では、先学の研究に欠ける手向宿坊街の変遷や宿坊街を取り巻く地域社会の視点に注目し、1.神仏分離以降の地域社会の変化、2.霞?檀那場の管理と所持状況の変遷、3.宿坊街の組織運営と経営状況の変容と現状の3点から手向宿坊街における地域変容に迫った。
手向の人々は神仏分離以降、大正までは修験活動によって生計を立てていたものの、昭和前期には自作農の増加に伴い主産業を農業へ転じている。これには昭和恐慌などによる不況が考えられ、以降手向では宿坊経営を兼業とし、農?商業を主要な職業とする動きが見られた。また、手向の宿坊数や経営の根幹である霞?檀那場の所持数も昭和61年以前の記録から任你博5年に至るまで減少している【図1】。特に、霞?檀那場を所有する株持に占める宿坊経営者の割合も減少傾向にあり、現在では宿坊を閉じ、冬季に霞?檀那場を廻る檀廻に専念する人々の割合が増加している。この背景には霞?檀那場を形成する講中の衰退が挙げられ、特に近年では東日本大震災による講中の物理的な断絶や、高齢化?未継承によって夏季の宿泊客が減少している状況から、宿坊経営の収益に繋がらず、宿坊を閉めざるを得ない状況にある。しかし、このような現状にある宿坊街において、現在まで霞?檀那場など宿坊の機能が継承されているのは明治における「手向村慣例保続規約」や、大正から戦前まで地区内で運営された三山参詣人案内所による管理が行われていたことに起因している。これらは社会構造の変化に翻弄される宿坊街の中で重要な役割を果たしたと言える。



志村直愛  教授 評
山形に古来から伝わる出羽三山の信仰は、民俗学的にも意義深いテーマだが、とりわけ羽黒山の麓に集まる手向の集落は、全国から集まる参拝者の信仰を支える地誌学、建築史学的にも重要な土地である。昨今、時代と共に宿坊の町並みや、経営、伝統的な制度風習も少しずつ消えつつある。伊藤はそうした状況に危機感を持ち、現地を幾度となく訪れ、文書調査やヒアリング、実測などの現地踏査を繰り返し、その現状を明らかにしてきた。歴史遺産の研究では、問題解決の前提として、歴史が伝えてきた実態を可視化することが求められるが、意欲的な取材活動と丁寧な現状分析は、本県に於ける民俗学的な伝承への大きな問題提起としても貴重な成果と言える。

1. 山形県鶴岡市羽黒町手向地区の俯瞰図

2. 手向宿坊街から望む月山

3. 手向の株持?宿坊分布の推移【図1】